忍者ブログ

今日もアートスクール

京都アートスクールの4校(京都駅前七条校、京都 北大路駅前校、滋賀 彦根駅前校、NET通信実技センター)の日々を随時更新。
23 November

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

09 January

とうとう決まったようですね

こんばんは保田です。そして
あけましておめでとうございます。
今夜はちょっと遅くなってしまいましたが、家から投稿してます。

とうとう決まったようですね...京芸の移転。

1月6日付けで、京都市立芸大公式サイトに記事が出ていました。

京都市が本学の崇仁地域への移転整備方針の決定を発表

記事によると
 ~平成26年1月6日,門川大作京都市長が,本学の要望に応え,本学を崇仁地域に移転整備する方針を決定したことを発表されました~ とのこと。

方針を決定した、という段階なので、まだ第一段階といったところでしょうか。
順調に話が進展したとしても、最終的に移転が完了するのは、まだまだ先になるのでしょう。
今まさに京芸を目指してセンター対策の猛勉強をしているだろう生徒達には
あまり関係ないのかもしれませんが。
それにしても、京都市の方針としてはっきり決定した訳です!

京芸の移転については、もうずいぶん前から話はあったのですが、
「ばくぜんとした話」なだけで「具体的な話」にはなかなかならなかったのです。

数年前から、アスク主催の芸大受験説明会に、
京都市立芸大からも参加していただけるようになったのですが、
その際に移転問題について質問すると
「移転は...したいんですがね...」と、いつも渋い顔で話を濁され
やっぱり無理なんやろな...と、思わされるばかりでした。

ところが、昨年3月

京都市へ本学の崇仁地域への移転整備を要望

で状況は一変しました。
建畠さんのような大物学長がいる間に決めてしまいたい、ということなのか
京芸も今回は本気のように思われ...

そして、約1年後の今日に至った訳です。
とりあえず、おめでたいことです。
実際京都駅前ということは全国的な視点から見ると、
その利便性は意味があるんじゃないでしょうか。
京都市立の芸大としての意味もより強くしうるのではないでしょうか。


アスクとしても、七条校から歩いて行ける距離になる訳で。
そういう意味では、なるべく早く移転していただけるとありがたいですね(笑)。



保田




ところで、昨年の12月25日(水)のクリスマスの日の朝、東山七条の智積院に行ってきました。

午後からの七条校勤務の前に、庭園と長谷川等伯・久藏親子による障壁画を見てきました。
七条校から七条通りをずんずん東へ歩き、鴨川を渡り、国立博物館、三十三間堂の前を過ぎると
東大路で七条通りは終わるのですが、まさにそのどんつきが真言宗智山派 総本山智積院です。
(七条校から徒歩約15分)

すぐ北にはアスク生も多い京女、逆に南に下がると今熊商店街に、大谷高校、日吉ヶ丘高校。
(ところで今熊野商店街の「大谷園茶舗」の抹茶ソフトは絶品です)



智積院は庭園が素晴らしいのと、あの有名な障壁画の実物(収蔵庫、撮影禁止)と、それが元々あった空間(大書院)を見ることが出来て勉強になりますので、すごくおすすめします。講堂の田渕俊夫画伯の襖絵も素晴らしかったです。(これも撮影禁止)過去の作品と現代の作品があるお寺に行くと、ほとんどの場合、現代のものが激しく見劣りして何かがっくりくることが多いのですが、コレは等伯に負けてない!と本気で思いました。

(この辺りには他にも、三十三間堂や、養源院の宗達もお勧め、国立博物館に9月にオープン予定の谷口吉生設計平成知新館楽しみです)


↑この絵はレプリカ。本物がある収蔵庫は、この部屋とまったく同じ間取りになっている。


縁側の下はいきなり池。天気が良ければ池の波の波紋が軒に映る。


で、何が言いたいかというと、今や移転を控える身とあいなった現在の京芸沓掛校舎の
移転前の校舎がこの智積院の中に、(外観は)そのまま残っているんですね。
「旧芸大」は智積院の敷地内にあったということです。
長い歴史の中で何度も移転している京都芸大ですが、沓掛の「前」と「後」はけっこう近い場所
ということになりそうですね。


↑奥の校舎っぽい建物


保田が京芸に入学したのが1986年。前回の京芸移転が1980年なので、まだ移転間もない時でした。
当時の院2の先輩方が、沓掛校舎の初年度生でした。
で、若手の非常勤講師の方々は、最初今熊野の「旧芸大」に入学されて、途中から沓掛に来られた人達でした。で、当時、聞かされたのが「旧芸大」がいかに良かったか、あるいはメチャクチャだったかという話でした。(今風に言えば「武勇伝」のような話が多かった)新校舎の我々は、そんなOBの熱い話にあこがれて、なんか損したな的な感覚でした。「旧芸大見学ツアー」というのがあってOBに連れられて、覗きに行ったこともあります。
一方で、前回移転当時の梅原猛学長を中心とした移転の苦労話もいろんな方からよく聞かされた。ものすごい苦労を重ねて移転して、結果、「旧芸大は良かった」とは、なんだかなあ、という話だとも思いました。
長くなるので、ここらで辞めますが、
しかし、今になって思えば、あれはまさに「伝説」であり「幻想」だったのだろうということです。


沓掛校舎も伝説になるのでしょうか?

今から「沓掛」に入学する生徒達は、後の「崇仁」新校舎の生徒達に伝説を語る側になるのかもしれませんね。

拍手[0回]

PR