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今日もアートスクール

京都アートスクールの4校(京都駅前七条校、京都 北大路駅前校、滋賀 彦根駅前校、NET通信実技センター)の日々を随時更新。
24 November

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21 September

深い紺の混ざった黒っぽい先生

本日も彦根校には非常勤講師の寺村先生が指導に入ってくださっています。

なので再度、寺村先生をダシに、ちがう。行数かせぎに、ちがう。えじきに、もっとちがう。
あ、ホットなトピックにしてみたいと思いました。
 そういえば、生徒のMさんは寺村先生のことを「黒い先生」と呼んでいるとのことで、
これは寺村先生が、いつも黒い服をお召しになられているからだそうです。
ところが、実際の寺村先生を見てみるに、実は黒だけでなく必ず深い紺色の服をコーディネートされてらっしゃる。
 これはかつて日本に来航し皆がこぞって「黒船」と呼んだ船が、実は深ぁーい緑色の船体だった、ということと事を同じくする現象なのではないかと私は思いました。
 知能が発達し言葉を扱う人間という生物は、物事を抽象化して分類するという脳機能を持っています。この能力はおそらく我々の生存に不可欠なものなのでしょう。
 ところが、何かを創り出すという局面において、場合によってこういった能力は邪魔になることもあります。
 平たく言えば「思い込み」「錯覚」「偏見」といったそれです。
 例えばデッサンなら、意図せず明暗を単純化してしまったり、表情や色をおおざっぱに捉えてしまうといった視覚的四捨五入とでも言うべきことを、知らず知らずしてしまっているかもしれません。
 なのでデッサンが単調になる、色彩に幅がないという悩みのある方は、そのあたり意識してみると良いかもしれません。
 ただ一番言いたい事はというと。
 近い将来、物を創っていくMさんのような人は、寺村先生のことを安易に「黒い先生」などと呼ばず、「深い紺の混ざったコーディネートを主とするが、あくまで全体的に見て黒っぽい感じに印象として残りつつも、内面を含めけっしてすべてが黒いわけではない先生」と呼ぶべきであると、私は強く訴えたいのです。


はやし

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