22 September 人を描き、人型を造り、人を創造する 七条校、北大路のST生を対象に、人物デッサンを制作しています。日ごろ人間関係に悩まされる人は多くとも、人物デッサンでは一旦は無縁でしょう。その理由ですが、北大路校隣のNETセンターにもあるミロのヴィーナス像、この像には腕がありません。むしろ腕がないことが、この像の神秘性を増しているそうです。人間の造形という営みが、いかに世間離れした行為かよく判る例です。この世間離れした行為は無力であり、何の社会問題解決の手立てにもなりません。油絵や日本画を描けることが、粘土で人型を造れることが、果たして就職にプラスになるかといえば、多くはそんなことはなく、一銭の価値にもならないことの方が多いです。けれど日本が世界で一番芸術に携わる人口が多く、美術館へ足を運ぶ国民と言われています。世の中で芸術が必要だと誰かに教わった訳では無いのにも係わらず・・・。 なので、人物モデルを観て描くことで、己の姿を確認をしているような、そんな禅問答の心境に至ってみてはどうか。人物を描くということ、造形することとは、きっとそういうことなんだと思います。人物デッサンの構図や構成、人の質感やモデルに似てる似てないは、あくまで時に、あくまで受験に必要な表現であって、それが造形の本質ではありません。人が人を描き続ける理由とその意味について、もう少し俯瞰で、また丁寧に考えてもらいたい。また昨今、人前で話すことが上手な人=コミュニケーション上手だという風潮がある。自己啓発本やハウツー本などもあったり、けれどそれは往々にして、人付き合いが上手い人、友達が多い人が、コミュニケーション上手で優れた人だ!うらやましい!という勘違いから派生している。誰とでも言葉で上手く繋がっているようでいて、結局誰とも繋がっていない状態をつづけて、果たして孤独感はぬぐえるものか。「僕たち、私たち一緒よね」と確認しあっている様は、10年付き合ったカップルが、「僕たち、私たちラブラブよね」と他人にアピールしている違和感に似ていると思うのだが。 それよりも、なぜ人間てのはこんな形をしているのか、なんで脚が2本、腕も2本なのか、なぜ空を飛ばず地を這い歩くのか。観察を通して疑問を抱き、造形に思いを馳せることのほうが、本当に大事なことに近い気がします。田和 [0回]PR 2015/09/22 (Tue) 15:03 アスクでのこと Comment(0)