12 January 草津教室そうじ 年が明けて早二週間。草津教室では、合い間を見つけて、新しい年を迎える大掃除を今更ながらしています。本日は、何かの折に増え続けるダンボールが、ただでさえ狭い草津教室を圧迫してきたので処分します。貧乏性なので「何かに使えるかも」と思って置いていましたが、いつまでたっても出番らしきものは訪れず、もう潮時だと判断しました。そのまま捨てるとかさばるので、カッターで解体してから廃棄していきます。たまりたまったりダンボール小さくカットゴミ袋に詰める終わったと思って一息ついていたら、また奥の方から出るわ出るわ。「パ プ リ カ」という文字が、バカにされているような気分にさせます。ちなみに僕の祖母は、「何かに使えるかも」と言いながら、部屋の天井までうず高く積まれたおびただしい量の空き箱をため込んでいました。そんな血筋を振り払うように、ひたすら切って切って詰め込みます。ゴミ捨て場に捨てて終了。授業までまだ時間があるので、床を拭くことにしました。机をどかせて洗剤で磨く汚れに見えるのが、ほとんどイスなどの引きずり傷なので、苦労のわりにあまり効果が実感できず悲しい気持ちになります。だから、せめてその苦労の痕跡をと、こうしてわざわざ写真付きで書いているわけです。そうこうしているうちに、基礎生がやってきて授業開始。床をはじめその他掃除の効果には、案の定誰も気付かずじまいでした。これは、ひとりの男が人知れずひたすらダンボールを切り刻み、床を磨いたというだけの、ただそれだけの話です。私たちの生活のドラマチックな一場面の影には、こうした雑音にも等しい膨大な日常の些事が埋もれているものです。人間の「知性」というのは、その些事を無きものにしようとしてしまいがちですが、実はその雑音の中にこそ真実らしきものがあったりもします。あるいはドラマと雑音そういった両面が合わさって人間の姿なのかも知れません。とにかく「知性」はそういうことを無視したがります。かっこばかりつけている人が面白くないように、かっこばかりつけたアートやデザインが面白くないのは、そういうことなのかもしれません。違うかもしれません。ただ確かなのは、人は歯の隙間にさっき食べた鶏肉のかけらをブラブラさせながら、次の瞬間には平然とその口で甘美な愛をささやける生き物だということです。僕はそのことを、僕が無様な姿で必死に磨いた床の上で、何事もないかのように授業を受ける基礎生に伝えたかった。シャイなので結局伝えなかった。あと面倒くさい奴だと思われたくないので伝えなかった。だから、せめてもとこうしてここに書いているわけです。ようするに、掃除の苦労を誰かに認めてほしいという稚拙な自我の爆発です。さて、きれいになった?教室で心機一転。受験も佳境。どうか良い年になりますように。はやし [0回]PR 2012/01/12 (Thu) 21:46 滋賀・草津駅前教室 Trackback() Comment(0)