本日は、京都嵯峨芸術大学のメディアデザイン学科より、松本 泰章先生と、入試課の荒芝さん、石場さんにお越しいただきました。
「映画の父」と呼ばれるリュミエール兄弟の作品を鑑賞した後、受講していた生徒たちは、映像表現の根源にある「動きの魅力」を探しに教室の外へと出かけました。
多種多様な映像表現を鑑賞したことのある私たちの目に、リュミエール兄弟の作品は少し退屈にうつります。しかし、はじめてそれを目にした当時の人々は熱中し、瞬く間に映像表現は発展していきました。
音のない――映像だけの――形で発表することを条件に、生徒たちはみな、さまざまな“動き”を撮影して帰ってきました。
他の人が撮影した映像を、スクリーンに投影して鑑賞してみる。
そこには、ファインダー(モニター)を覗いていたときとも、実際の目で見たときとも違ったイメージが生まれてきます。ここに表現の面白さが隠れているのかもしれません。
何気ない「動き」に注目して観察すること。何気ない日常に驚きを発見すること。目の前にあるモチーフをじっくりと観察し、画用紙に描くこと。
形は違えど、美術と呼ばれるものに共通する何かは確実に存在します。
発想やアイデアと呼ばれるものは、自分の足元を――自分自身の周辺を――見つめることによって、はじめて見えてくるものではないでしょうか。
「自分自身がおかれている環境の中で、いかに自分らしくあれるか」
自分のまわりと、自分自身を、相反することのように感じるときもあるけれど、もしかすると、その二つ(世界と自分、もしくは社会と自分)が別々に存在することなどないのかもしれません。
何気ない日常に驚きや喜び、その他、さまざまなことを発見するためには、自分で感じることが(考えることが)、なによりも大切だと思います。けれど、自分のひらめきが、本当に素直なものなのかと見極めることはとても困難です。
だからこそ、ひらめいたものが、表現されたものから受けたインスピレーションなのか、体験したものから受けたインスピレーションなのか、(そのどちらも大切だけれど)、いつもそのことに意識的でありたいと思います。
そして、自分自身の体験したものから受けたインスピレーションを、大切にしつづけて欲しいと思います。
サカグチ@七条