08 February 説得するにもそれなりの 思うのですが、説得力というのは、「あのう、どうでしょう、わかってもらえますかねえ……」といった類のものではなく、相手の胸倉つかんで揺さぶりながら、「わかれ! わかるか? わからせてやる! このやろう!」と圧倒するものをこそ、僕はそう呼びたい。これは実技の試験でも同じで、相手の顔色を伺った及び腰の作品は、まず評価されないだろうなと僕は思います。とはいえ、まったく相手を鑑みない強引さは、何にもなり得ず、それは単なる自己満足でしかありません。なので、胸倉をつかむ者は、ただつかんでスゴむだけでなく、胸倉をつかまれる人のことも考えようよ、と。胸倉をつかまれる方だって、つかまれている時は、けっこうなエネルギーを使うはずです。「勝訴」という紙を掲げて裁判所から駆け出てくる男がぷりっぷりのメイドさんの格好をしていたら、はたして報道は説得力を持つでしょうか。明日社運を賭けた大事な会議があるんですという人が小脇にサーフボードを抱えていたら、その切実さは伝わるでしょうか。子供がシルクのガウンを着てブランデーグラスをくゆらせながら目を細めて「今夜が山だな」とか言ってたら、そいつを可愛がろうと思うでしょうか。同様に、胸倉をつかんでいる人の下半身がムーンウォークしていたら、胸倉をつかまれている方は、一体どういう気持ちになればいいのでしょうか。それは胸倉をつかまれている人に失礼でしょうよ、胸倉つかんでるくせに、と思うわけです。「勝訴」の紙を掲げる男はちゃんとスーツ着て横分けであれ、切実な事情の者はちゃんと頭を抱えろ、子供はちゃんと可愛くあれ、演技でもいいから。僕はそう思うわけです。胸倉をつかまれる方はきっと、もっとちゃんとつかんでほしい、もっと深く眉間にシワ寄せて目剥いてアゴしゃくらせてちゃんとスゴんでほしい、と思ってるはずです。表現に堅牢性を持たせるなら、自分の作品は人の胸倉をつかむに相応しい、凶悪なヤクザみたいな風貌に頭からつま先までちゃんとなっているのか、そういった自己言及がたぶん必要です。胸倉をつかむ人は、胸倉をつかまれる人のことを考えて、胸倉をつかむ。それが、本来の説得力であったり客観性であったりするのではないかと、仮止めマスキングテープが貼られたまんまの京芸模試立体作品を昨日見て、ふと思いました。本日の草津教室 模試講評のため ガラーンはやし [0回]PR 2013/02/08 (Fri) 15:36 アスクでのこと Comment(0)